フルーツリアル

ビーリアル始めようかなーと思ってアカウント作ってたら「あなたの電話帳の中でビーリアルのアカウント持ってる人一覧」みたいなのでこれまでの人生で最も大切で今後も絶対に忘れられない人が1人だけ出てきたから即アカウントを消したね

 

すみませーんガチャ、とか言って適当な教室に入ったら教室の真ん中にその人がポツンといてこっちを見てたみたいな感じ(笑)

 

 

 

ハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハアハア

 

 

 

明日もがんばるぞ~

 

 

 

 

 

 

フルーツ友達

最近は友達や身近な人に叱られることが何度か続いたので、耳を塞いで聞こえないフリをしたりウサハナのぬいぐるみを見つめたりしてして過ごしていた。率直に言って少し落ち込んだが、それはそれとして、特に人間関係における齟齬の大部分は嗜好の不一致であり道徳的な善し/悪しで語れる部分は非常に限定的だと思っているので、自分の苦手なものに対する不愉快さを説教という形で出力することの強引さと率直さに対して、皮肉ではなく、感心もした。自分も今度やってみようと思う。

同じ時期に似たような指摘を複数の人から受けたので、友達に「自分ってASD傾向があると思う?他人を気遣わない言動が多いらしく周囲に病気を疑われている」と聞いてみたら「私があなたのせいで嫌な思いをさせられているというより、あなたが私によって嫌な思いしてるのかもと思うことがある。でも言ってしまえばそんなの知らないし」と言われて(君がASDなんじゃないか?)と思った。そのままでいてほしい。友達が言うところによると、我々は会話の中で不快さが生じることを前提としてコミュニケーションをするが、不快さがない状態を目指すのを優先事項として据えている人もおり、そのような前提に対して自信のある人が他人の振る舞いに対して正当な立場から他人を諭すような言い方をするらしい。前半についてはその通りで、後半も友人の言う通りであれば自分にとっては都合が良いが、これだと少し都合が良すぎるのでもうちょっと自分に非があった方が居心地は良いなと思った。自分が受けた「あんまりこういうことは言わないほうがいいのかもしれないけど、あなたはASDだと思う」という指摘のされ方に関して、「あんまり~」の部分がオブラートとして十分に機能していると考えているところがむしろ非ASD的すぎるという話もした。

昨日はこの友達と渋谷で会ったが、僕が人混みにうんざりした気持ちに抗えず明らかに帰りたそうな態度を取っていたら「あなたは疲れているし機嫌も良くないだろうけど私は靴下が欲しくて仕方ないから今からパルコ行くよ」と予定になかったパルコに連れて行かれ、(でも言ってしまえばそんなの知らないし過ぎる)と思った。

一緒に住んでいる友達にも自分からASD傾向を感じるか確認してみたが「ちゃんと会話できるよー」と裏声で言われた。「ねえピアス開けていいー?」と聞かれたので自分の左耳の好きな場所に2箇所ピアスを開けさせてあげた。みんな勝手だ。ASDなんじゃないか?

インターネットで「アルファベット3、4文字を言い訳にして~~」みたいな言説を見る度に(人には人の苦労があり相対化できるものではないのだから他人が口を出すのはナンセンスだ)と本気で思うが、少なくとも自分は進んで言い訳として活用してしまう側だという自覚があり、もし自分の性質に対して何かしらの診断が下りて、その特性に名前が与えられた場合、自分はそれを大義名分としてどうしようもなく甘えてしまう気がする。

どこに開けられるかわからない状態でピアス開けるのはめちゃくちゃ楽しかったのでみんなもやってみてください。施術する側の提案で実施するというのが大事です。まずは、そういう友達を作りましょう。

フルーツ静岡

馬の上から失礼します。

4日前に祖父が亡くなったので静岡に帰っている。母から訃報を聞いたとき、祖父が亡くなったこと自体よりもそのせいで計画していた旅行がキャンセルになるかもしれないことがまず頭に浮かんだ。こういうのって幼稚だと思う。自分が受けた恩を恩として捉えておらず、義理とかも無い。年に1度会うか会わないかだった祖父と今後一切会えなくなることが楽しみにしていた目の前の旅行よりも大事であるとどうしても認識できない。そもそも自分は死というイベントがピンと来ていなくて、人体の一切の生命活動が止まり社会との関わりを持つことができなくなって実質的にその人間が世の中から消滅するなんて現実の出来事だとどうしても思えない。ちょっとファンタジーすぎる。例えば自分の恋人が突然死んだとして、それをちゃんと悲しめるかどうかもわからない。彼女が留学に行くため1年間会えなくなるという方が悲しさに実体がある。

通夜やそれに続く儀式の時もどういう顔をしているべきかわからなかったが、別に悲しんでいないのに神妙な顔をしているのも失礼な気がしたので終始「ふーん」という感じで式を見ていた。誰も仏教のことなんてわからないのに親族がみんな真剣な顔をしていて滑稽だった。そんな表面的に振る舞うくらいなら自覚的に「ふーん」とした方が多少誠実だと思った。一通りやるべきことが終わった後は祖父が住んでいた家で親戚20名ほどで寿司を食べたが、正直言ってこの会はホントに最悪だった。経済学のことなんか何も知らない叔父に「お前がやってる研究は絶対日本の役に立つから頑張れ」と言われて心底不快だった。なぜそんなことが言える?自分には語り得ない領域があるということを理解してほしい。わからないことをわからないまま肯定することと、わからないことをわからないまま否定することは最終的な態度が逆なだけで振る舞いとして本質的に違わない。せっかく東京に住んでいるのだから今まで関わってこなかったような人と接した方がいいと言われたので、知り合いでDJやってる人とかタトゥーの彫師やってる人がいるよ~~と言ったら、いくら外国でポピュラーだからと言って日本の文化ではタトゥーなんて絶対認められないよなと言われた。素地としての主張は大学院の外にバックグラウンドを共有しない知り合いがいることであってそれが彫師であることは末節である。続けて、まあその人がいいなら別にいいけどね、と言っていた。一般論だ。注文した寿司を店に受け取りに行った時も、19時15分に受け取る予約だったのに19時に着いてしまったので店の人に「まだできていないので待っていてください」と言われ待っていたのだが、自分の父が19時14分に「まだできないの?」と店員に詰め寄っていて見ていられなかった。立場的に自分に近かったのは今年結婚した従兄弟が連れてきていた配偶者だったが、初対面の親族たちの中でずっと遠慮して座りながら周りに何を言われても愛想笑いをしていて、それがこちらの親族に迎合しようとしているように見えてあんたもそっち側かよと思ってなんか腹が立った。とばっちりである。本当にうんざりしたので4貫あったウナギの寿司を1人で3貫食べたあと会を抜け出して東京にいる彼女とずっと電話をしていた。叔父が失礼で父がクレーマーなら息子は幼稚だ。

 

やはり人が死んでいいことなんてひとつもないのでもう誰も死なないでほしい。静岡は田舎なので星がたくさん見えるが、星には興味がないので早く東京に戻りたい。

フルーツ豆腐を食べた直後にホラー映画を見るのはたぶん豆腐に失礼

新宿御苑で友達と豆腐の食べ比べをした。

 

前日の予報だと当日は雨だったが(結局晴れた)、2人とも雨の御苑には行ったことがないので雨でもやろうという話になっていた。前日に『言の葉の庭』は雨の御苑が舞台であると教えてもらったので、モチベーションを高めるために当日の午前中に見た。感想としては「見たなあ」という感じで率直に言えばめちゃくちゃつまらなかった。自分がアニメを見慣れていないというのと新海誠作品を見るのが初めてだというのもあると思うが、言葉遣いや息遣いが装飾的すぎて安っぽく見えた。「あ、あの!ッ……!いや、なんでも……ないです……」みたいなのって苦手だ。友達に「言の葉の庭、つまらなかったよ」と言ったら「自分も好きじゃない!」と言われた。

 

豆腐のバリエーションは枝豆豆腐、うに豆腐、ジーマミー豆腐、ごま豆腐、寄せ豆腐、波乗りジョニーの6種類だった。波乗りジョニーというのはスーパーで売っている沖縄の豆腐で、形がサーフボードみたいなだけで普通の絹ごし豆腐だし名前も変なのだが、味が美味しく食後の感じがアボカドに似ているので一目置いている。波乗りジョニーが美味しいことが豆腐好きの間で共有されていてすごい。結局満場一致で1位だった。

 

 

食べ終わった後、友達に「こんど変な自販機を見つけるまで歩くやつやろうよ」を言われたが自分は変な自販機に興味がないので断った。

豆腐の後はホラー映画を2本連続で観ることになっていた。1本目『イノセンツ』。これはなめらかな試験管(という友達がいます)がめちゃくちゃ怖いと言っていたので相当怖いのだろうと思って観たけど、怖さはあまり感じなかった。主人公の女の子の笑い方が可愛い。こういう映画を観ると、観た後に自分の中に「これは良い映画だったんだ」と頑張って納得させようとしてくる派閥が生まれるのがわかる。新宿ピカデリーの11階にあるスクリーンでの上映だったが、11階までエスカレーターで行く必要があるのが大変だった。エレベーターを見つけられなかった自分が悪い。

2本目『ヴァチカンのエクソシスト』。これはホラーというかアクションだったが、とても楽しかった。勢いだけで言うとキングスマンみたいだった。

自宅への終電がなくなったので神奈川方面の電車で多摩川に行って河川敷に朝までいた。東京に来て1年半、川で夜を明かすのにも慣れた。

 

フルーツコジコジ

大学院の同級生(吉良)と吉祥寺のコジコジカフェに行った。大学院の同級生と大学外で会うのは初めてだった。初めてだったので、2分遅刻した。

吉良さんはラインのアイコンがコジコジで、喋り方やメッセージの文面もコジコジっぽいので勝手にコジコジに似ていると思っている。コジコジからzipファイルを送られてきたりコーディングの相談をされると嬉しいので、友達のことはコジコジだと思っておいた方が得である。見た目は別に似ていない。髪に金のメッシュが入っている。

最近なにしてます?と言われたので、知り合い(フォロワー)が出ている演劇を観に行ったり友達(フォロワー)が参加している展示に行ったりしているという話をしたら「その友達は小学校や中学校の同級生とかですか?」と言われて、ルールが違うなと思った。

コジコジカフェの感想は特にない。ナポリタンがめちゃくちゃ熱くて意外だった。700円のマグネットを買ったのは後悔してる。

コジコジカフェを出てからは吉良さんが古本屋の百年に行きたいと行ってたので着いていった後、井の頭公園の池を一周した。ボート乗り場が定休日かなにかで営業していないのを見た吉良さんが「こんな暑い日にスワンボートに乗るとかただの運動ですね」と言っていて、自分はスワンボートの運動としての側面を考えたことがなかったので面白かった。

 

zoomの招待を送るコジコジ

 

フルーツパルキア


多摩川の花火大会に行った。会場近くのミニストップガイヤーン(タイの焼き鳥)が売られていたのでマリービスケット(犬)に見せた。会場に行くまでの道は通行規制がされていて、狭い路地を通って河川敷にショートカットできないように警備員が見張っていたのだけど、路地の中に自分の家がある人は当然通ることができ、そういう人たちは止めようとしてくる警備員に対して「家、家なんです」と言って通っていてなんか切実だった。ひとりだけ緩い警備員がいて、通っちゃいけない路地に見物客が入っていくのを全然防げておらず、狙い目だった。一緒に行った友達が「地元で花火を見た時に火の粉が飛んできて服が燃えたことがある」と言っていて、自分は絶対に嘘だと思うんですけど、どうですか。

 

肝心の花火に関しては、もちろん良かったけどまあこんなものかなという感じで、見ながら少しだけ居眠りをした。一緒に行った友達も寝てた。ただ大人数の老若男女が同じものを見てはしゃぐという機会が貴重なのだし、大人でも「すごーい」と拍手をしながら見ている人が結構いて良かった。むしろ子どもの方が写真を撮るのに熱心だった。

 

帰りは混雑していてなかなか動けなかったので友達が嘘のゴシップを言い合おうと提案してきた。友達が1つ目のゴシップとして「パルキアだけは、本当にいる」と言っていて、これがなんか無性に面白かった。

 

人混みを抜けてからは多摩川の入っちゃいけないところに座ってビールを飲みながらなんとなく真面目な話をした。途中で若者3人組が入っちゃいけないところに入ってきて自分たちの隣で禁止されている打ち上げ花火を始めた。めちゃくちゃ公式のスーパー合法花火を見た思い出がしょぼいイリーガル花火に上書きされていくのが面白かった。


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フルーツ観劇、そして誤解

今めちゃくちゃお金がないんですけど昔チャージした楽天ペイの残高が5000円くらいあるので楽天ペイが使える隣駅のサミットに向かいながらブログを書いています。楽天ペイが使えるスーパー、貴重。巣鴨にはなんでもある。プロレスもある。喫茶伯爵の支店があることは全然知られていない。エコバッグを忘れた。

 

ツイッターでは何度も言ったけど直近の土日で南極ゴジラの『怪奇星キューのすべて』を2回観た。土曜に初めて観劇して、これが人生で初めて生で演劇作品を観る機会だったのだけど、とても面白く、食らってしまったので、日曜の千秋楽公演も友達(山田、浅井)と観に行った。日曜に観た後はめめんともりかわ(めめんともりかわ?)と感想ラジオを2時間半録った。

 

元々自分は「理解できることについてしか語りたくない」という気持ちが強く、自分が創作物に対して解釈や感想を述べるということに否定的だったので、演劇のことを何も知らず観劇経験が皆無の自分が2時間も感想を喋ったというのはちょっと前だったら考えられない。今はこういうことを積極的にやっていこうと思っているけど、これは2週間くらい前に自分が大好きで30回以上読んでいる村上春樹『風の歌を聞け』について他の読者たちが書いた感想ブログを読んだのがきっかけです。この本に関して他の読者の感想を読むのは意図的に避けていて(自分の読みの浅さを知るだけだと思っていたから)、実際に感想を読んだ後も自分は今まで何を読んでいたんだ......と落ち込んだのだけど、一方でそれだけ作品を"深く"理解している読者たちの感想にも、作中で明言さていないことについて行間を読み過ぎではないかと思う点や流石にこじつけだろうと思う解釈があった。自分は他者からこう思われるのが嫌で感想を外に出すことを避けていたのだけど、村上春樹自身は作品の正しい解釈というものに関して「正しい理解は誤解の総体である」という態度を表明していて、村上春樹がそう言うのであれば感想ブログを書いた読者たちのように積極的に誤解をやっていこうと思うようになった。

 

特に今回はラジオという形式で森川と喋りながら感想を言えたのも良かった。例えば文章の形式でこれが誤解なのか作り手の意図通りの解釈なのかわからないまま一方的に感想を述べるよりも、自分の誤解を肯定したり否定したりする相手がいてくれることで気兼ねなく感想を述べることができる。もっとも『怪奇星キューのすべて』については面白すぎて喋らないと気が済まない、という感じだったのでラジオがなくても何かしらの形式で感想を外に出していたと思う。

 

全然関係ないが、友達とラインで話していて、オペラやミュージカルではない演劇のことを科白劇と呼ぶと教えてもらった。科白劇っていい単語だと思う。情報として過不足がない感じがかっこいい。「セリフの劇、歌ではない。それだけ」という感じがする。友達はストレートプレイと呼ぶのが好きだと言っており、気が合わない。

 

いわゆる「普通の〇〇」を意味する言葉があるのは便利だと思う。「ミュージカルではない演劇」は科白劇だし、「古本屋ではない書店」は新刊書店だし、「古着ではない服」はサラ着である。便利。レトロニムという概念自体が好きだという人もいるけど、自分は別にそうは思わなくて、ただ普通の方にちゃんと名称が与えられているのが隙がない感じがしていいなと思う。レトロニムは日本語で再命名と言うらしい。かっこいい。

 


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