フルーツ観劇、そして誤解

今めちゃくちゃお金がないんですけど昔チャージした楽天ペイの残高が5000円くらいあるので楽天ペイが使える隣駅のサミットに向かいながらブログを書いています。楽天ペイが使えるスーパー、貴重。巣鴨にはなんでもある。プロレスもある。喫茶伯爵の支店があることは全然知られていない。エコバッグを忘れた。

 

ツイッターでは何度も言ったけど直近の土日で南極ゴジラの『怪奇星キューのすべて』を2回観た。土曜に初めて観劇して、これが人生で初めて生で演劇作品を観る機会だったのだけど、とても面白く、食らってしまったので、日曜の千秋楽公演も友達(山田、浅井)と観に行った。日曜に観た後はめめんともりかわ(めめんともりかわ?)と感想ラジオを2時間半録った。

 

元々自分は「理解できることについてしか語りたくない」という気持ちが強く、自分が創作物に対して解釈や感想を述べるということに否定的だったので、演劇のことを何も知らず観劇経験が皆無の自分が2時間も感想を喋ったというのはちょっと前だったら考えられない。今はこういうことを積極的にやっていこうと思っているけど、これは2週間くらい前に自分が大好きで30回以上読んでいる村上春樹『風の歌を聞け』について他の読者たちが書いた感想ブログを読んだのがきっかけです。この本に関して他の読者の感想を読むのは意図的に避けていて(自分の読みの浅さを知るだけだと思っていたから)、実際に感想を読んだ後も自分は今まで何を読んでいたんだ......と落ち込んだのだけど、一方でそれだけ作品を"深く"理解している読者たちの感想にも、作中で明言さていないことについて行間を読み過ぎではないかと思う点や流石にこじつけだろうと思う解釈があった。自分は他者からこう思われるのが嫌で感想を外に出すことを避けていたのだけど、村上春樹自身は作品の正しい解釈というものに関して「正しい理解は誤解の総体である」という態度を表明していて、村上春樹がそう言うのであれば感想ブログを書いた読者たちのように積極的に誤解をやっていこうと思うようになった。

 

特に今回はラジオという形式で森川と喋りながら感想を言えたのも良かった。例えば文章の形式でこれが誤解なのか作り手の意図通りの解釈なのかわからないまま一方的に感想を述べるよりも、自分の誤解を肯定したり否定したりする相手がいてくれることで気兼ねなく感想を述べることができる。もっとも『怪奇星キューのすべて』については面白すぎて喋らないと気が済まない、という感じだったのでラジオがなくても何かしらの形式で感想を外に出していたと思う。

 

全然関係ないが、友達とラインで話していて、オペラやミュージカルではない演劇のことを科白劇と呼ぶと教えてもらった。科白劇っていい単語だと思う。情報として過不足がない感じがかっこいい。「セリフの劇、歌ではない。それだけ」という感じがする。友達はストレートプレイと呼ぶのが好きだと言っており、気が合わない。

 

いわゆる「普通の〇〇」を意味する言葉があるのは便利だと思う。「ミュージカルではない演劇」は科白劇だし、「古本屋ではない書店」は新刊書店だし、「古着ではない服」はサラ着である。便利。レトロニムという概念自体が好きだという人もいるけど、自分は別にそうは思わなくて、ただ普通の方にちゃんと名称が与えられているのが隙がない感じがしていいなと思う。レトロニムは日本語で再命名と言うらしい。かっこいい。

 


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