フルーツ今

 

「いつやるか?今でしょ」というフレーズがある。

 

正確には「ジャいつやるか?今でしょ」である。

 

今日は「いつやるか?」と「今でしょ」の関係性に注目していく。「いつやるか?」で振りかぶってからの「今でしょ」。「いつやるか?」で勢いを付け、また相手を揺さぶった上での「今でしょ」。

 

「いつやるか?」と「今でしょ」の間には速度の違いがある。当然「いつやるか?」が遅くて「今でしょ」が速い。後発の「今でしょ」が先発の「いつやるか?」に追い付くタイミングがある。「いつやるか?」が耳から入り脳に運搬され終わる時、同時に「今でしょ」も認識に到着する。

 

あくまで「いつやるか?」があっての「今でしょ」である。「今でしょ」の存在が「いつやるか?」の存在に依存する関係と言える。「いつやるか?」から切り離され独立した「今でしょ」は、まるでクロスボールを上げる味方がいないのにゴール前でヘディングの動作だけをしているような空虚さがある。

 

林修に「今でしょ」を言わせたい共演者は「いつやるんですか?」と問う。我々も普段の生活の中で冗談で「今でしょ」と言ってしまうことがあるが、これは自発的に言っているというよりも「いつやるか?」(またはそれに準ずるパス)に反応して「今でしょ」が発動してしまっているというのが正確である。メインが「今でしょ」というのを前提としても、「今でしょ」を執行する権限を握っているのはトリガーである「いつやるか?」であり、やはり「今でしょ」の存在は「いつやるか?」に強く依存している。

 

 

 

 

 

 

 

 

それに比べて「バキバキ童貞です」における「ご自身は?」の存在は軽視され過ぎていませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

インターバルなし(つきすすめ)

 

フルーツ映画ライブ

『正欲』を観た。他人と映画を観るのって楽しいんだなと思う。一方でこの楽しさは極めて属人的だとも思う。例えば観た映画がつまらなかったとして、自分か相手かのどちらか、または両方が(自分はつまらなかったけど相手が面白いと思ってたらどうしよう)みたいなことを憂慮する人だったらやっぱり他人と映画を観るのは難しい。みんなどうしてるんでしょうか。本当に気が遣える人って僕がそういう態度を苦手だと思う傾向があると察して率直なフリをしてくれるのでしょうか。映画を観た後は映画に関する話ができた。映画にかこつけて自分の話をたくさんした。

他人に怒られたり他人と喧嘩をした時に言われたことをスマホのメモ帳に都度書き残すようにしている。メモ曰く、私は当時好きだった人に「「満足したから帰る」や「もう1ヶ月会わなくていい」と言ったのは、あなたがそういう女の子が好きだからと思ったから演じただけ」と言われている。実際、2人で会っている時に「もう満足したから帰るね~」と言って本当に帰っちゃうようなところが好きだったので、これはまんまと、だ。ただ波風を立てないことと気を遣うことが混同されていなくてすごい。自分が気を遣う気がないこととその人にひどく気を遣わせていたことを理由に仲が悪くなった。「あなたは友達に対して偶然気が合うのだと思うのだろうけど、周りが気を遣っているだけ」とも言われた。

映画を観ることに対して家事と同じようなハードルの高さがある。皿を洗ったり風呂に入ったりして後悔した経験がないのに毎回やる気が起きないのと同様に映画を観て後悔した経験も特にないのに何かきっかけがないと観られない。映画を観た後はまず「観れた~」という達成感がある。観切った、というのが近い。それとは別に『正欲』は個別の作品として観て良かったです。何か教訓があったとか面白かったというよりも感想を抱く代(しろ)があったので良かった。観た人がいたら話したい。自分の話をたくさんします。

映画を観た後は友達のバンドのライブに行った。音源とライブの印象が結構違って、自分はライブの方が好きだったので良い感じだった。オルゴールの箱を開いたら演奏が流れて閉じたら止まった、みたいなライブだった。1人すごくつまらなそうな顔で演奏しているメンバーがいて、そのつまらないっぽい態度の塩梅がよかった。自分が同じニュアンスの態度を取るとしたらどうしても「やってるな」という感じになると思うのでその調節が上手くてすごい。良いな~と思った直後に自分にはできないなと思う。時系列的はこうで、因果関係は逆。観客の中に文学フリマで僕の本を買ってくれた人が何人かいてそれぞれの戦略で褒めてくれたので喜んだ。みんな私を喜ばせるのが本当に上手い。そういう学校に通っていた。「周りが気を使っているだけ」と言われるのも仕方ない。

前日は電気グルーヴのライブに行っていた。ワンドリンクオーダーという制度を電気グルーヴのライブで初めて経験し、友達のライブではその経験が生かせた。アルコールは飲めるができる限り飲めないフリをしたい。電気のライブではオレンジジュースを飲み、友達のライブではトマトジュースを飲んだ。透明度の低い飲み物は透明度の低い味がする。←めっちゃ文フリにエッセイ出している人みたいな一文

↓これ生で聞きました

news.yahoo.co.jp

口裂け女は歯磨き粉の消費が激しそう、と思ったが歯のサイズと本数は別に自分と変わらない。

フルーツ有意水準

ICLの翌日検診に行った。ICLは翌日、1週間後、1ヶ月後、3ヶ月後に経過を見る検診を受ける必要がある。効率の良い復習のタイミングみたいだ。高校の時、特進クラスが文化祭でやった演劇にエビングハウス忘却曲線がネタとして出ていたのを思い出す。あの時は「さすがSクラスw」みたいな感じになってたけどうちの高校の生徒なんてみんな受験厨なんだからサッカー部以外は忘却曲線くらい知っていたはず。

昨日の手術には15分遅刻したけど今日の検診は10分前に着けたので残余を減らせた。検診は特に問題なく終了。視力検査で小さいやつも見えた。視力1.5て。メガネやコンタクトの矯正は上げても1.2くらいまでなので1.5まで見えるのは人生初かも知れない。小2からメガネでしたから。なんなら後に広島カープの選手になる同級生からメガネって呼ばれてましたから。あの時はヘラヘラしてたな。あれ以来ヘラヘラしてない。

ICLは術後1週間、保護メガネ(花粉症の人が着けるものとほぼ同じ)を着ける必要がある。待合室に自分と同じ透明のゴーグルを着けている人が何人もいて(ICL同期だ)と思った。色々なことに同期という概念を導入したら楽しいかも知れない。知らない人の同期に勝手にされたら嫌だから自分はやらない。もう誰かやってるだろうし。

裸眼で過ごせるようになったのでブルーライトカットメガネを買いに行きたい。度を入れる必要がないので多分3000円くらいで買えるのではないかと予想。すぐ欲しいが来月から友達がzoffで働き始めるのでまだ我慢。フォーブスに「ブルーライトカットメガネは眼精疲労や睡眠の質を「改善しない」可能性」というタイトルでブルーライトカットメガネに関するコクランレビューを紹介している記事がある。改善しない可能性、っていいですね。かなり注意深い書き方だと思う。つまり統計的に有意な効果が見られないだけなので「改善するとは言えない」としか言えないんだろうけど、この研究を元に効果なし!と書いてしまうメディアがあるだろう中、好感が持てる。あとマルチビタンのサプリにも健康指標に対する統計的に有意な効果はない。小沢健二が言ってた。一方で主観的健康感には有意に効くらしい。とはいえ客観的健康指標に効果があると信じて飲むことが主観的健康感を引き上げている気がする。実質偽薬だとわかった上で飲んでも効果があるのだろうか。それならそれで(=主観的健康感を向上させるならそれで)いい気がする、と小沢健二は言っていた。ブルーライトメガネだって昔かけていた時には疲労に対する効果があるように感じた。どこまでが科学的な態度。友達が働くzoffにみんなで行ってメガネ作るの楽しみ。全員メガネで集合写真撮りたい。科学と同じくらい友達が好きだ。

 

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この眼科の待合室で流れているグラフが不思議だったので撮った。比較する群によって有意水準のスターを変えるという経済学にはない文化。比較する群が違うなら係数も変わるのでは。いやこれは係数じゃなくてアウトカムの有意差の話だからいいのか。そもそも待合室で流すような一般向けのグラフに有意水準書いてある方がすごいか。どうですか?

 

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本当にピスタチオが1列に散らされて提供されるんですか?どうですか?

最近読んだ論文で大麻使用が学業成績に与える影響を実証したものがあって面白かった。もともと医学的なエビデンスはあったみたいだけど、オランダの規制政策を使って因果推論のフレームワークで実証していた。大麻使用で学業成績と単位取得確率が上がるらしいです。経済学のイメージって株価とか景気とか賃金に偏りすぎてる。それって経済であって経済学じゃない。意思決定をモデル化してたら大体経済学にしていい。私だって景気のことを何も知らない。コミュティの男女比によって告白の成功確率が変わるとか、裕福な家庭が保育所を利用すると子供のIQが下がるとか、そういう論文しか読んでない。パブリックイメージと実態との乖離って他の分野にもあるんだろうなと思う。色々な分野のアウトリーチを同時にやるイベントをやりたい。別に学問じゃなくていい。短歌詠む人はどうやって考えているのかとか、この写真はどこがいいのかとか、そういうことを知りたい。そういう話を前にイベントの主催をやっている友達と青椒肉絲麺を食べながら話した。焼きそばの上に青椒肉絲が乗っているのだと思っていたら汁があって意外だった。

フルーツICL→お笑い→小平市→

全員が思っているけど本当に全員が思っているので誰も口に出さないことを言います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すしらーめん《りく》って

 

 

名前のフォーマットとして

 

 

新 し す ぎ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

せ  や  ろ  が  い  !

今日は視力を上げる手術を受けた。0.03から1.5になった。

家から病院まで15分だと思っていたら30分だったので遅刻。知らない間に豊島区と新宿区の距離が離れている。みなさんも気を付けてください。

ダッシュで病院に入ったら、受付をした瞬間に目薬を3種類点眼された。1つは抗菌のやつで1つは瞳孔を開くやつで1つは意味を説明されなかった。

瞳孔を開くやつは事前の検査でも差したことがあるが、これを差すと瞳孔が開きっぱなしになるので奥にピントが固定されて気持ち悪い。擬似的に老眼になる。

この後も2セット同じ組み合わせの点眼を受け、入念に瞳孔を開かせる。瞳孔が開いたら、手術用の待合室に入る。美容室で着るレインコートみたいなやつを着せられた。汚れるかもしれないので、と言われポロシャツの襟を内側に折りたたまれる。今日は半袖のポロシャツの下に長袖のポロシャツを着るというキモコーデだったので看護師にも(半袖のポロシャツの下に長袖のポロシャツを着るというキモコーデだ)と思われた。

そしてまた点眼。ここでの目薬は目の麻酔だと説明される。差したそばからまぶたがピリピリするのがわかる。

「手術中に目を動かしてもらう必要があるので練習しましょう」と説明され、看護師の人が目の前で動かすペンを目で追う練習をする。動くペンを目で追うのは初めてだったが、センスがあったので合格。

手術室に入る。リクライニングする椅子に座り、リクライニングする椅子なので背もたれがリクライニングした。施術は右目からで、まずは顔を傾けて洗浄される。「右下見てー、はい右横ー」と眼球を動かすことを指示される。先程の練習の成果を発揮。

ここから本番が始まる。私が受けたICLという手術では目を切って中に人工のレンズを入れる。実際に切って入れている間は目に向かって当てられる光を見続けないといけないので眩しくて何をされているのかは全くわからない。なお、目は器具で固定されて閉じられないようになっている。時々医師から「ちょっと押される感覚がありますよ〜」と実況されるが別にちょっと押される感じはしなかった。ただ確かに目を切られているのだろうなという感覚はあった(麻酔をしているので痛みはない)。とは言っても、これはICLがどのような手続きなのかを知っているからそう思うだけなので、先入観に依った理解である。ノーヒントで目を切られて「何をしたでしょう!」と言われたらおそらく誰も答えられない。私が伊沢拓司に勝てる唯一のクイズ。

左目も同じことを繰り返し手術自体は終了。体感両目で10分くらいだったが、時間は計っていないし事前に20分くらいだと予告されていたので手術時間はおそらく20分だったと思う。

この後はなんかすごいもこもこしたソファで40分休憩したあと、ビスケットをもらって終了。病院を出る。

この時点で視力は上がっているのだが、目は痛くて頑張らないと開けていられず、泣いた時のように目に入る光が反射するので、フラフラしながら富士そばへ入店。肉そば(温)とカツ丼を食べる。夜は友達と共通の知り合い(ロマンチックコンサート佐々木)が出演するお笑いライブを見る予定があったので、それまでルノアールで本を読んだ。

時間になったので友達と合流し、ライブを観る。お笑いライブを観るのは初めてだったが、楽しかった。冒頭とネタの合間合間にフリートークのような時間が設けられていたが、芸人の人たちの合間トークの雰囲気とネタの中の雰囲気の違いが格好良くて印象に残っている。実際はどうなのかわからないけど、特に面白いと思った人たちはみんな楽しそうにネタをやっているように見えた。人を笑わせる仕事なのだから、ということではなく、作ったネタを見せることに躊躇がないというか、私(たち)の表現しているものに隙はないですよという自信を感じた。

ライブ後は友達とロマコンさんと3人で駅まで歩い帰った。ロマコンさんの中学時代の同級生もライブを観に来ていて、僕らにちっちゃいお菓子を2つくれた。この時に古賀及子さんの日記の、古賀さんの息子が同級生にファミマ靴下をあげたら気に入ってその場で履いてくれて息子が嬉しいと感じた、という話を思い出したので、貰ったお菓子はすぐに食べたが、喜ばせられたかはわからない。その場で食べずに時間が経ってから忘れた頃に見つけて食べた方が美味しいという説もある。

新宿駅に着いて家に帰ろうと思ったら同居人から「まじで帰ってこないでほしい」という旨のかなり怒っているようなラインが来ていたので急遽友達が住んでいる小平市に行く。心当たりはないが、文面的にたぶん向こうの持ち物を無意識に雑に扱って壊したり汚したりしていたのだと思う。親に一切怒られずに育ったので怒られた時の選択肢が言い訳と保身と開き直りしかなく、怒られると反射的に(不当だ)と思ってしまう。やめたい。今年は他人を怒らせることが多い。お金を払うと視力が上がる。バッグがパンパンなことを指摘されると恥ずかしい。小平市だろうと鍵は閉めたほうがいい。

フルーツ文学フリマ東京37

直後から書こう書こうと思っていて結局264時間くらい経ちましたが文学フリマの感想です。

なぜ今書いているかというと待ち合わせをしている友達が遅刻をしているからです。12時に待ち合わせていたのに12時16分に「家を出た」と連絡が来た。「おせー!」と返したら「こんないい天気だしね」と返ってきた。遅刻する側の態度として適切だと思う。

文学フリマ。今回が初めての出店だったけどかなり楽しかった。楽しいと満足が両立している。イベント中はアー楽しい楽しい楽しい楽しい!という感じであっという間に終了時間になった。自分は何かしらの創作で身を立てている人間では無いので、ブースを持つみたいな経験をすることが年に1回か2回くらいしかなく、この類の楽しさが他のイベントに上書きされないので、ずっと余韻が残る。来年の正月とかになっても今回の文学フリマの話をしていると思う。

まずはブースに来てくれた友達、フォロワーのみなさんありがとう(と言わせてください)。普段から会っている友達が来てくれたのはもちろん嬉しかったし、あとインターネットを利用していると存在は認知しているけどきっかけがなく会うには至らないという関係がどうしても多くなるので、そういう人たちと直接コミュニケーションを取るきっかけになったのも良かった。互いに存在は知っているけど私に特段興味とかないだろうなあ~と思っていた人が買いに来てくれると非常に承認欲求が満たされ健康に良い。なんなら事前にブースに行くことを予告してくれていた人に対しても(えー!来てくれたんですか)と本心から思う。中には私の本を購入することを目的に文学フリマに来てくれた人もいて、私の本に100円を支払ったことがその人の家計を圧迫していなければいいなと思う。

一方で私の存在を知らない中でブースに来てくれた人もいた。どうして来てくれたんですか?と聞いたら「見本誌コーナーで読んで興味を持った」や「webカタログのエッセイカテゴリを眺めていて気になった」と教えてくれて嬉しかった。特に出店名(めっちゃおっきいお餅のもりもりぜんざい)や本のタイトル(中学生になったら部活とかにも挑戦してみたい)が面白かったから来ました、という人が何人もいたのがとても嬉しかった。自分が面白いと思って付けたタイトルが他者にとっても興味を引くものであると背中を押される気分になる。

初めて出店側として文学フリマに参加して、(これはかなり市場だ)と思った。つまり、無数の供給と無数の需要が同時に存在して売買がなされる場であり、一部有名な作家、ライター、歌人がいるとはいえ、来場者にとって多くの出店者は特に情報を持たない同質な存在である。経済学における市場は仮想的な概念というか、株式市場を別にすると実際に1つの場で多数の売買が同時に行われるという場は現実には滅多に存在しないわけだけど、あの日の東京流通センターはかなり市場的なシチュエーションになっており、興味深かった。その上で、タイトルや出店名をきっかけに無数の同質な商品の集合の中から自分の本を掬い上げてくれた人がいたことがすごく嬉しかった。無数の商品がある中で購入される商品として選ばれる背景には他の商品との差別化があるわけだけど、文学フリマの場合ある程度来場者が自主的に情報を収集する必要があるので、差別化を行う主体は出店者だがそれが実際的な効力を持つかどうかは来場者に依存する。エッセイという特に作者に関する情報を含めて選ぶことが一般的な極めて属人的な形式の中で、初見の人に選んでもらえるというのは光栄である。

会場では、有名なライターの人やお笑い芸人の人がその辺を普通に歩いており、私のミーハー心も十分に満たされた。大好きなウェブライターの人のブースに行ったら「前回〇〇くれた人ですよね?」と差し入れと紐付けて覚えてくれていて、コポコポ……(ミーハー心というマグカップに満足という名のホットミルクが注がれる音)。この後、そのライターの人が私のブースの近くを歩いていたので、ジッ……と見つめていたら気付いてくれて本を買ってくれた。半ば無理やり買わせたようになってしまったが、家計を圧迫していたら申し訳ない。

イベント後はDM経由で郵送購入をしてくれる人が想像以上にいた。これも嬉しい。最近、会った人に「ブログ読んでます」と言われる機会が何度があり毎回とても嬉しいのだが、webカタログから紹介文を読む、ブースに行く、郵送希望のDMを送る、リンクをクリックしてブログを読む、などの一手間を自分に対してかけてくれる人が一定数いるというのは本当に健康に良い。自分もコンテンツをチェックしている相手に対してチェックしていることや感想をちゃんと伝えようと思う。

 

文学フリマで乗った馬

フルーツ説教

最近世間で話題のトピックがいくつかあるけど、どれを見ても正義側の勢いが過剰で怖い。例えば容姿に対する中傷とかさあ。そういった類の悪口って特定の容姿や性質に対する偏見の再生産にしかならない。仲間がたくさんいるから調子に乗ってるだけのただの鬱憤晴らしの癖に偉そうにみんな説教をしている。仲間がたくさんいるから調子に乗れている。それが気持ち良いから罪を起点に容姿を悪く言うという飛躍を認識した上で意図的に鈍感になっている。叱られている側の罪がきっかけだとしても正義が気持ち良すぎて一線を超えている方々の方が見ていて気持ちが悪いし自分が徒に叱られて気持ちよく消費される側に回ることはないと思えているのもすごい。自分はいつか絶対に回転寿司の醤油を舐めてしまうと確信しているので過剰に怒られている人を見ると怖くなる。説教をできるってある種の能力だ。自分の不快さをきっかけに規範的な言説を導く独自の強引さがある。多分大学で説教の授業を受けてたとか、独学でそういう資格とかを取っているとかなんでしょう。過剰な説教や中傷をしている人を見ると「そんなこと言っちゃダメだろ」というよりも「あ、それも言っていいんだ」と思う。自分もいつか中傷をやってみたい。みんなもやった方がいい。

 


   ̄ヽ、   _ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     `'ー '´

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フルーツ編み物

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初めて編み物をした。

ダイソーの犬のために手提げバッグを作った。

大学院生が碌に研究もせずに編み物をして褒められて満足していてやばい。

自分の分野で挑め!

池袋に24時半までいた。

終電を逃したので自宅のあるサウスカロライナ州まで歩いて帰った。