フルーツ静岡

馬の上から失礼します。

4日前に祖父が亡くなったので静岡に帰っている。母から訃報を聞いたとき、祖父が亡くなったこと自体よりもそのせいで計画していた旅行がキャンセルになるかもしれないことがまず頭に浮かんだ。こういうのって幼稚だと思う。自分が受けた恩を恩として捉えておらず、義理とかも無い。年に1度会うか会わないかだった祖父と今後一切会えなくなることが楽しみにしていた目の前の旅行よりも大事であるとどうしても認識できない。そもそも自分は死というイベントがピンと来ていなくて、人体の一切の生命活動が止まり社会との関わりを持つことができなくなって実質的にその人間が世の中から消滅するなんて現実の出来事だとどうしても思えない。ちょっとファンタジーすぎる。例えば自分の恋人が突然死んだとして、それをちゃんと悲しめるかどうかもわからない。彼女が留学に行くため1年間会えなくなるという方が悲しさに実体がある。

通夜やそれに続く儀式の時もどういう顔をしているべきかわからなかったが、別に悲しんでいないのに神妙な顔をしているのも失礼な気がしたので終始「ふーん」という感じで式を見ていた。誰も仏教のことなんてわからないのに親族がみんな真剣な顔をしていて滑稽だった。そんな表面的に振る舞うくらいなら自覚的に「ふーん」とした方が多少誠実だと思った。一通りやるべきことが終わった後は祖父が住んでいた家で親戚20名ほどで寿司を食べたが、正直言ってこの会はホントに最悪だった。経済学のことなんか何も知らない叔父に「お前がやってる研究は絶対日本の役に立つから頑張れ」と言われて心底不快だった。なぜそんなことが言える?自分には語り得ない領域があるということを理解してほしい。わからないことをわからないまま肯定することと、わからないことをわからないまま否定することは最終的な態度が逆なだけで振る舞いとして本質的に違わない。せっかく東京に住んでいるのだから今まで関わってこなかったような人と接した方がいいと言われたので、知り合いでDJやってる人とかタトゥーの彫師やってる人がいるよ~~と言ったら、いくら外国でポピュラーだからと言って日本の文化ではタトゥーなんて絶対認められないよなと言われた。素地としての主張は大学院の外にバックグラウンドを共有しない知り合いがいることであってそれが彫師であることは末節である。続けて、まあその人がいいなら別にいいけどね、と言っていた。一般論だ。注文した寿司を店に受け取りに行った時も、19時15分に受け取る予約だったのに19時に着いてしまったので店の人に「まだできていないので待っていてください」と言われ待っていたのだが、自分の父が19時14分に「まだできないの?」と店員に詰め寄っていて見ていられなかった。立場的に自分に近かったのは今年結婚した従兄弟が連れてきていた配偶者だったが、初対面の親族たちの中でずっと遠慮して座りながら周りに何を言われても愛想笑いをしていて、それがこちらの親族に迎合しようとしているように見えてあんたもそっち側かよと思ってなんか腹が立った。とばっちりである。本当にうんざりしたので4貫あったウナギの寿司を1人で3貫食べたあと会を抜け出して東京にいる彼女とずっと電話をしていた。叔父が失礼で父がクレーマーなら息子は幼稚だ。

 

やはり人が死んでいいことなんてひとつもないのでもう誰も死なないでほしい。静岡は田舎なので星がたくさん見えるが、星には興味がないので早く東京に戻りたい。